略歴 2003年 日本手工芸指導協会 講師資格取得
2005年11月 全日本バードカービングコンテスト
上級ミニチュア部門2位受賞、ギャラリー賞受賞
2006年5月 (株)Yujin 原色日本昆虫図鑑U 原型制作
2007年2月 (株)Yujin 原色日本昆虫図鑑V 原型制作
2007年7月 (株)あすなろ舎 ご当地解剖図鑑 原型制作
2007年8月 (株)Yujin 原色日本昆虫図鑑W 原型制作
2008年8月 東急百貨店たまプラーザ店 第12回 日本の職人展 出展
2009年2月 プランタン銀座創作クラフト作品展 出展
2011年1月 (株)奇譚クラブ ネイチャーテクニカラーMONO 山菜 原型製作
2011年12月 大丸松坂屋百貨店 出展
2012年3月 (株)奇譚クラブ ネイチャーテクニカラー 小笠原 原型制作

前巻までのあらすじ 昭和49年、東京に生まれる。幼少から虫をはじめとする生き物に興味を持ち、工作が得意。

成長し、生き物や自然への興味も忘れていく青年時代。人間社会でやっていけるはずもなく、動物相手の仕事をするくらいしかなすすべなしと考える木村青年は、獣医を志し日本大学獣医学科へ入学。
しかし、大学生活において動植物研究会というサークル活動を通じて自然への興味を取り戻す。と同時に人との交わりも知る。
事実上この時点で“獣医を志す”理由は消滅している訳だが、まだ本人は気付いていない。というより随分とお金をかけて立派なレールを敷いてしまった都合上、いまさら後戻りも出来ないので進路について深く考える事は避ける。

大学を卒業後、予定通り獣医師となる。極めて厳格に動物医療を行っている事で定評のある病院に勤務するが、もともと信念も無いのに(動物が好き、と動物医療が好き、は別のお話)そんなハードな職場についていけるはずも無く一年も持たずに退職。それを機に一度きりの人生、やりたいことをやって生きる事にしてしまう。
現実には楽にやっている動物病院でも食っていけるし、いい加減な事をやってボロ儲けしているインチキ獣医もいる訳だが、そういった柔軟な考え方は木村青年には出来なかったようだ。このことが彼の人生にとって吉と出るのか凶と出るのか、判るのはまだず〜っと先、数十年後のお話。になると思う。

手始めに野生動物、自然環境の勉強をするために環境アセスメント業界に身を置くことに。
2001年4月、(有)生物科学研究所に入社。その先どうするかは追々考える事にして、動物調査の仕事に従事する。
動物調査の仕事をする傍ら、昔から粘土でモノを創るのが好きだった事から、現場で遭遇した生き物との出会いのシーンをジオラマで再現してみる。ここにシリーズ“フィールドノート”が始まる。

2003年3月、森林の草木を創りたいが為にアートフラワー教室の門をたたいてみるが、先生に出会うなりプロへの道を誘われる。この日から造形作家をめざし、造形尽くしの毎日が始まった。

2005年5月、教室の展示会に、(株)Yujinの方を後輩が連れてきたことから、ガチャポンフィギュアの原型制作の依頼を受ける。

2005年10月、勤めながらフィギュア原型を創っていたが、二束の草鞋が鬱陶しくなり会社を退社。造形作家への第一ステージとして、いわゆる原型師となり独立する。
でもフィールドが恋しくなって、取材と称してたまに動物調査のバイトに出る。
この頃、原型師として培った複製技術を用いて、販売用のミニジオラマシリーズ“直径10cmの情景”が誕生する。

2007年、アクセサリーデザイナーとのコラボで粘土の羽根を使ってアクセサリーを創るという話が持ち上がる。これを機に開発された様々な羽根グッズ、それが“粘土の羽根飾り”である。
この“粘土の羽根飾り”の誕生によって羽根創りの日々が始まり、原型師から羽根職人へとステージを移しつつある今日この頃に至る。


〜 祖父金之助 米寿で行く 〜

祖父倒れるの電話が入ったのは、年の瀬も押し迫る師走の朝の事だった。出先のトイレで意識を失ったという事らしい。私は小売店Hobby's Worldに栃木屋製品の納品を済ませた足で、すぐさま実家へ急行する事になった。
“栃木屋工房”、これが私のオリジナル作品を販売するうえでの屋号である。

栃木屋とは、かつて曾祖父の代に木村家が御菓子屋だった頃の屋号である。1925年に京橋区本港町(現在の中央区港町)で創業、駄菓子を小売りする他、仕入れた洋菓子を日本橋、京橋のミルクホール(現在の喫茶店)に卸す事もしていたようだ。しかし、戦争で砂糖の配給が無くなり、1939年に廃業して以降、木村家は勤め人の家となったという。
そんな事情を知ったのはつい先日、折しも自社の屋号が無いことに困っていた時の事。祖父金之助にとって栃木屋は父の思い出が詰まった屋号である。戦後半世紀以上を経た今、孫の代でその屋号が復活するとあればそれは感慨深くもあろう。そんな思いからの“栃木屋工房”である。製品パッケージも出来、HPももうじき開設、今まさに新生栃木屋が形をなしつつあるところなのだ。
それなのに。冗談じゃない、栃木屋の名の入った製品を見せる前に逝かれたとあっては洒落にもならんではないか。待ってろ爺様、御家再興の時は近いのだ。

帰路を急ぐ私に実家から二回目の電話が。かかりつけの医者に来てもらい、往診が済んだという。医者が告げた診断名、それは、

“ノロウイルスか何か”

…なんでしょう、このごく日常的に耳慣れた病原体の名称、加えて全く緊迫感に欠けるこの表現の仕方は。何かってなにさ。
つまり、なんですか?要するにただの風邪っていう事ですか?
実家に戻ると金之助は起きて活動していた。明日はクリスマス会に行くんだってさ。へぇー、今日点滴されてた人がねぇ。行くんだって、今年米寿の人がクリスマス会だって。別にいいけどっ!

ただで帰るのも癪なので金之助に直撃インタビュー、栃木屋の歴史について取材してやった。金之助は矢庭にペンを取り出すと絵を描き始めた。荷車を引く人とそれを後ろから押す人の様だ。聞けば両親が菓子を卸して回る様子だという。これはこれは思わぬ収穫、栃木屋工房ロゴマーク原案いただきではありませんか。
激務のさなか、無駄足したかと思ったが、これをじいさまからのクリスマスプレゼントと思う事で今回の帰郷、よしとしますかね。
元気とはいえ祖父も今年で米寿、精々養生して新たな歴史を刻み始めた栃木屋を見守っていて欲しいものだ。いくつになっても色んな事を楽しめる人だから元気でいられるのだろう。クリスマス会、いいんじゃない?健康維持の為にも楽しんで行ってきて下さいな。

H.19.12.8